今年で76歳になる村山保太郎氏(写真1)は不動通り「松乃屋」のご主人。今は現役を退いて息子さんにお店を任せているものの、週に何日かはお店に立って仕事をこなしているほどの元気なおじいさん。昭和46年から平成6年まで6期24年にわたって区議会議員を務め、区議会議長などの要職を経て勲四等瑞宝章を授与される。また不動通り商店街振興組合の理事長にも選ばれ、不動通りの発展にも貢献。今はそちらも引退し、相談役としてみんなから頼りにされる地元の信頼も厚い「名士」なお方。そんな村山さんの激動の人生とは・・・。

 村山さんは大正13年6月に生まれ、高等小学校から商業学校に進む。家業のソバ屋を継ぐつもりでいたのだが、当時はおりしも太平洋戦争中で食料が不足し、家業が成り立たなくなり軍隊へ。と言っても職業軍人ではなく軍属として陸軍の燃料本部で航空燃料に関する経理を担当していた。
 その後昭和19年に徴兵され陸軍へ。士官学校へ入学し、幹部候補生として学んでいる最中に終戦を迎えたが、ロシア軍に捕らえられ、シベリアへと抑留される。このシベリアでの苦しい体験が村山さんの人生に大きな影響を与えたという。

「こんな山の中で死んでなるものかと毎日自分に言い聞かせていました。」
 今は笑顔で語ってくれる村山さんだが、その話は壮絶で、一番多い日で28人もの死者が出たこともあるらしい。毎日毎日ノルマを決められて、大木を切り倒したり、線路を引いたり炭鉱で働かされたりと、極寒の地で血のにじむような苦労があったという。食事はおかゆか黒パン、それと「肉のかけらが見え隠れする事もある」野菜スープのみ。ボロボロの兵舎に住めた人はまだましな方で、村山さん達は穴を掘ってそこに木をかぶせて屋根にして住んでいた。中で火を焚き続けても水筒が凍って破裂するほど寒い上に、干草を詰めた程度の寝具しか与えられず、寒くて眠ることすらままならなかった。凍傷や栄養失調は日常で、「死者」もほとんどが衰弱して死んでいったという。

「朝、起しにいくと、ゆすっても叩いても起きない。触ってみると冷たくなっている。それで死んだという事がわかるわけです。次は自分の番かとみんな震えていましたよ。」
 最終的に村山さんの周りではおよそ1000人いた仲間が364人にまで減ってしまったそうだ。今でも収容所仲間とは定期的に集まる中で、当時の苦労などを語り合って親睦を深めている。4年2ヶ月ロシアに抑留されていた村山さんたが、24年の5月に帰還の許可が下りる。「船がナホトカの岸壁から離れた瞬間、これで日本へ帰れると全身の力が抜ける思いでした。」当時の心境を村山さんはこう述懐する。着のみきのままで日本へと送還される船の中では同じ思いの人たちがたくさんいたことだろう。村山さんはすすり泣く声も聞こえたと記憶している。

 帰国後は念願だった家業に復帰するが、思うところあって区議会議員に立候補する。教育を充実させてよい人材を育てることが、資源の少ない日本を発展させるのに不可欠との思いからだ。以来教育問題や地方分権に力を注ぎ、区民の生活向上のために尽くしてきた。

 もうひとつ、村山さんの人生で欠かせないものがある。それは日本と中国の友好を通じて世界の平和に訴えかけることだ。(写真2---湖南省外事弁交室長と)(写真3---北京市対外友好協会歓迎の宴)。現在、渋谷区日中友好協会の会長として定期的に中国を訪問し、両国の過去の関係を清算し、お互いの発展のために行動している。

 御年76歳ながら、そんなことをものともしないでがんばる姿勢には、散っていった仲間の分まで自分がやらねばとの思いが感じられる。過去の戦争を反省し、世界平和を祈願する活動は村山さんのもう一つのライフワークとなっている。

 最後にこれからを生きる若者に一言。「家族の絆を大切にして欲しい。家庭からすべてがはじまるんだから。地域と家庭が組んで、子供を育てていけば、社会全体もいい方向にむかうはすだ。」村山さんは今でも月に一回の靖国神社への参拝を欠かさない。亡き戦友との「絆」を大切にする横顔には、古き良き生き方が垣間見える。